ただいま寄り道中

カチン・ミッチーナの備忘録

Thanksgiving ーわたしの頬張っている鶏肉は、先刻まで生きていた“彼ら”ー


本日は、ミッチーナにとある協会で感謝祭を祝う会にお邪魔してきました。感謝祭についてはWiki参照 (https://goo.gl/LTkgcG


アメリカと同様に、カチンではこの時期に感謝祭が開かれています。カチンの方は多くがキリスト教バプティスト)であり、それがアメリカ人の宣教師によって 広まったということが、アメリカと同様に感謝祭を祝う理由だとか。(こちらは会に出席していた牧師さんの談)


それ以上に、もともと焼き畑農業が中心であったカチンでは、長い雨季を経てやっと新米を口にできるこの時期が、人々にとって特別であったということが感謝祭が根付いた理由なのではないかと。


そういう意味では、カチンでの感謝祭はむしろ日本の「新嘗祭」に通ずる部分が大きいような気もします。戦後、「新嘗祭」は名前を変えて「勤労感謝の日」となったわけですが、’勤労’などつけずに「感謝の日」あるいはそのまま「新嘗祭」でもよかったのではと。誰かに感謝するだけでなく、自然の目に見えない何かに感謝する日でもあるわけですから。

 

さて、収穫をもたらす神(God)に感謝して、その収穫の喜びを皆で分かち合う感謝祭のセレモニーには、歌あり、踊りあり、聖書の朗読ありと盛りだくさん!


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壇上には人々が持ち寄った収穫物


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会場全体で歌を歌って、会がスタート


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合唱する女性たち。各々違う色味のロンジーが美しい

 
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互いに収穫物を贈りあう。籠の側面には花がさしてあり、それもまた美しい。

 

会の最後、食事会で、先ほどまで生きていた鶏がつぶされた調理された料理を口にしたとき、「生きている」というより「生かされている」んだという言葉が、すとんと心に落ちてきました。それって、かなり当たり前のことではあるんですが、日々の暮らしに追われていると、ついつい忘れちゃうんですよね。


今、ここにいること、それは数多の命の犠牲の上にあるんだという紛れもない事実、そういうものへの感謝を忘れずに生きていきたいと思います。