ただいま寄り道中

カチン・ミッチーナの備忘録

カチンという”集団”から民族について考える

カチンという集団を構成する言語集団

カチン人には異なる言語をもつ集団が、7つないしは6つある。この7つないし6つというのは、私が参考にしている書籍ごとに数にずれがあるためこう表現している。

 
例えば、吉田敏浩氏の『森の回廊』下巻では、ジンポー、マルー、ラシー、アヅィー、ヌン、ラワン、リスという7つの言語集団と述べられている。
一方で、Lahpai Nang-Kai 『Through Kachin Lenses』では、Jinghpaw(ジンポー) 、Maru(マルー) 、Lashi(ラシー)、 Rawang(ラワン)、 Zaiwa(ザイワ)、 Lisu(リス)の6つの集団であると書かれている。
 
アヅィーとヌンはZaiwaと表現される人たちなのだろうか?このあたりは今度しっかりと、周囲のカチン人に聞いてみたいところである。
 
さて、吉田氏の本によればカチンのなかでは、ジンポーとマルー、ラシー、アヅィーは比較的共通のグループであるという意識が強い一方で、ヌン、ラワン、リスはそういった意識が低いと述べられている。
こうした予備知識のせいかもしれないが、ラワンの方とお茶を一緒にした際に、確かにジンポーと自分たちはちょっと違うというニュアンスを受け取れた。だが、お互いをどう感じているかにかかわらずカチンとて一枚岩の集団ではないようだ。
 

民族ってなんぞ

 
そもそも「民族」とはいったいなんだろうか。辞書的な意味では、言語、習俗、宗教など各種の文化的内容の大部分を共用し、集団帰属意識(ethnic identity)をによって結ばれた人間集団と答えることができるだろう。
 
じゃあ日本人は日本民族といえるだろうか。私は日本人だが、何民族ときかれてもうまく答えられる自信がない。大和民族日本民族?う~んどうもしっくりこない。この「しっくりこない感じ」をもつ人々というのはどのくらいいるのだろうか。日本では?世界では?
 
「日本国民」だけど「日本民族」ではないと感じる、逆にジンポーの人々は「ジンポー」だけど「ミャンマー国民」ではないと感じるに違いない。
 
結局、実体としてどうかではなく「国家」だとか「民族」だとかいう言葉や概念によって、人間の集団は分断され再統合されて、その言葉が意味する形に形成されているのではないだろうか。
 
参考図書
吉田敏浩『森の回廊』
Lahpai Nang-Kai 『Through Kachin Lenses』