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ただいま寄り道中

カチン・ミッチーナの備忘録

暇人、図書館で『おいしい資本主義』を読む。

 
いかんせん仕事をしていないと暇である。いや、本当はやるべきことが沢山あるから暇ではない。しかし、実家で居ると、なんとも作業がはかどらず、時間を持て余し始める。
 
お金の節約のためとはいえ、実家に帰るのは危険なことだ。もう少し早くそれに気付いていれば良かった。
 
もはや実家のぬる~い空気になれてしまい手遅れとなってしまった。
普通の会社員として過ごしていたころは、毎朝4時半頃に起きていたのに、いまでは7時にようやく身体が起きてくる。
勿論やるべきことをやってはいる。ただし、ノートパソコンの前で。
そうなると、朝から晩までパソコンの前に座り、朝倉さやさんとかいう民謡歌手の動画ばかりをYouTubeで見ている父と何ら変らなく見える。
私がそう思うのだから、母がそう思わないわけがない。
 
違うんだお母さん。私は今一生懸命に英語の文章を読み、手続きを進めているのだ。
必死に弁明すればするほど、いよいよ母の目が冷たい色味を帯びる。
 
視線が身体にプスプスと突きさり、さすがに家に居づらくなってきた。
 
仕方ないので図書館へ向かうことにした。
暇人が向かう先はいつだって図書館だ。小中高大、暇になれば図書館へ足を運んでいた。そして似通った暇人が図書館に吸い込まれていくのをみて安心していた
。図書館は暇人を吸い込む力があるに違いない。
 
ほうら、図書館につき辺りを見回せば、同じような暇人がぼんやり或は一心不乱に本を読んでいるではないか。
お爺さん、お爺さん、お爺さん、オジサン、お爺さん、オジサン?いやお兄さん?、母と子、そしてやっぱりお爺さん。
 
高齢者が多く、男性比率が高い。つまり老人は若者より暇で、お爺さんはお婆さんより暇。そして私はお爺さんと同じくらい暇。
 
そんなどうでも良いことばかりを考えて、本日のお目当ての本を探す。
 
近藤康太朗『おいしい資本主義』。
 
「オルタナ農夫」なる造語を用いて、ライターである著者が自分のおまんま(=米)を自分でつくる(=農作業する)という生活に挑戦したレポである。この本の面白いことは、あくまでもライターという著者の生きがいをやり続けるべく、仕方なしに農夫をやっているというスタンスである。
社会からばっくれる、ということを容認する緩さ。こういう「テキトー」さはある意味「寛容さ」だ。
 
私も好きなものを書きつつ、食べる分だけ育てていくという生活をしたい。
 
ちなみに、この本の欠点は、筆者が新聞記者、それも誰しもが耳にする超大手のということにつきるかもしれない。
 
結局、自分の求める暮らしなんて、お金も社会的地位もあるような人間にしか叶えられない、そう思えてしまう。

だってそうでしょう。
いくら文章を書くのが好きでも、本当にお金がない暇人がこうしたことができるのだろうか。
自由であるためには余裕が必要だ。それは、時間だけでなくお金が必要なのでは?
いや、そもそもこの「何をするにもお金がいる」という価値観自体を変化させよというのか?
 
なんとも歯切れの悪さを残したままで本を閉じ、顔あげる。
気分は薄曇りだ。
窓から外をみれば、初夏の日差しが煌めくというにも関わらず。